そして世界が夜明けを告げる

※ヴィルヘルム様×大人エリーザベト / 甘め

 ──微睡みの中、何かが額へと触れた気がした。

 微かなそれにエリーザベトは目蓋を開こうとはしたのだが、次いで与えられた髪を柔らかに撫でるような温かさが心地好く、自然と意識は深い場所へと再び沈み込んでしまう。
 そうして彼女が目覚めるのは、それから随分と後のこと。

「ん……」

 朝の陽ざしと、それから鳥の囀りと。夜明けを告げるそれに緩やかに身を起こした彼女は、部屋の振り子時計を見遣った。
 どうやら寝過ごしてしまったわけではないらしい。望ましい起床時間よりは少しばかり早かったが、遅れるよりはましだろう。

 ふう、と短く息を吐いたところで、剥き出しになった背中を寒気が襲い、彼女は小さく身を震わせる。肌寒いのは当然だろう、温まった布団に包まれているならいざ知らず、身を起こした今、彼女の背中は剥き出しだった。急いで剥された衣服を纏おうと周囲を手で探ったところで、ふと彼女の隣に目を向ける。

 寝台はそのまま権力や財力の大きさを示すとも言われるが、間違いなくこの領土内ではこの寝台は最も大きい物だろう。そのほぼ中央に横たわっていた彼女であるが、本来であれば今空いているその隣には、もう一人、この寝台を使うべき主が寝ているはずだった。
 多忙な彼は今日もまた夜も明けきらぬうちから政務に取り掛かっているのだろうか。蛻の殻と言うよりは、丸で最初から誰もいなかったかのように皺一つ見当たらない状態にまで整えてあるその箇所に、そっと掌で触れてみる。何時だって彼女は先に意識を失う為に正確に目にしたわけではないが、恐らくは、この辺りに彼は寝ていたはずだ。そう思い僅かでも証を求めてみるものの、冷え切ったそこには微かな名残すら残っていない。どうやら夫である彼が起きたのは随分と前のことらしいと察し、エリーザベトは一人悲しげに眉根を寄せた。

「……また……」

 共に朝を迎えることが出来なかった……と、込み上げてくる自己嫌悪感に自然と顔も俯いていく。
 ヴィンチェンツォ家に嫁いでから──より正確に言うのであれば、正式な夫婦として共に暮らすようになってから──幾らかが経つが、未だもって夫の起床に彼女が間に合ったことはない。彼の性格上、身支度は一人で済ませるだろうし、残る部分も執事をはじめとする使用人が言い付けられていることだろう。元より彼女が十七を迎える日まで一人で全てをこなしてきたのだ。正式な妻となったとはいえ、彼女が何かをする必要は全くない。生活面でも精神面でも、今更妻が介入せずとも夫は既に完璧なのだ……少なくとも、彼女の目にはそう映った。それでも妻を娶ったのは、単純な話、政治的な問題と体面上の理由だろう。貴族社会では良くある話だと、そうエリーザベトは理解していた。仮にも貴族の家に生まれた身なのだ、幾ら外界と隔離された場所で育てられたとはいえ、知識としては知っているし、納得もしている。

 それでも、と、彼女は小さく息を吐く。

「……起こして下されば良いのに……」

 思わず口を衝いて出た本音は、想像していたよりもずっと寂しげに響いた。

 あれだけ己にも他者にも厳しい夫が一切咎めることをしないのだ、必要がないのだというのに、それ以上の証拠はない。それは彼女も分かっていたが、寂寥感は拭えなかった。
 少しで良い。他愛の無い言葉を交わして、物語に記されているような、極々普通の夫婦のような遣り取りというものをしてみたかった。今日の予定を尋ねるのでも良かったし、夢で見たことを報告するでも、いっそ天気の話題でも構わない。些細な会話というものを試みるには、食事すら同時に取ることも少ない多忙な夫のことを思えば、朝しか好機はないのだから。

 ただ、残念なことに彼の方にはその気がないのか、正式な夫婦となってからというもの、今まで一度としてそんな機会は訪れなかった。

 昨晩聊か強引に奪われた衣類を静かに身に纏い、彼女は窓辺へと歩き出す。明けきらない朝の日差しは眩し過ぎず丁度良い。ふわりと柔らかに微笑んだ彼女は、ふと置き去りにされたままの一冊の本を目に留めた。丁寧に扱われながらも僅かに傷みが見受けられるその本は、昨晩彼女が夫を待つ間読み耽っていたものだ。幼い頃から暗唱すら出来そうな程読み込んだそれに記されている内容を思い、彼女は穏やかに双眸を細める。

「……仕方のないことだわ」

 白い指先で優しく表紙を撫でながら、エリーザベトは僅かに憂いを瞳に浮かべた。

「小説のようにはいかないものだし……それに、わたしとは前提が違い過ぎるもの」

 彼女の望んだ夫婦像も描かれているこの本は、所謂恋愛小説だ。最終的に夫婦となる男女は、共に相手に深い愛情を抱いており、その想いを互いに告げることにより幸福な結末を迎える。約束されたエンディングだ。この世に五万と溢れているだろう恋物語が、彼女はとても好きだった。
 それに加え、例え主役達ではなくとも、一般的な夫婦として登場し会話を交わす夫婦には、少なからず相手に対する情や信頼とも言うべき絆のようなものがある。そのことにもまた、彼女は羨望にも似た想いを確かに抱いていた。普通の、他愛のない会話を交わすには、互いに少なからず好意か、それでなくとも興味を抱いている必要がある。そう、彼女は本から理解した。

 いつか、いつか。遠く離れて暮らすまだ見ぬ自分の夫と自分も、いつかそのような夫婦として共に人生を歩むのだろうか。幼い彼女は夢見ていたし、また根拠もなく、漠然とそれを信じていた。

 だが、実際のところは所詮小説は夢物語で作り話だ。残念ながら今の自分にそれは見込めないだろう。諦めにも似た境地に至りつつ、彼女は小さく苦笑した。

 夫のヴィルヘルムはそういった日常的な遣り取りに興味を示したことがない。彼がそういった他愛ない繋がりに価値を見出しそうかと考えていけば、答えは間違いなく否だ。日々政務に忙殺されている夫が、時間を割いてまでそのような事に付き合う必要は全くない。彼女の方も何の力にもなっていない負い目がある分、強引に付き合わせるのも憚られた。

 実際、他愛無い遣り取りを交わす夫婦とは、どのような気分になるものなのだろう。酷く興味は惹かれたし、憧れにも似た感情もある。ただ、それを体感する日は決して訪れないだろう。そう、確信染みたものがあった。

 ふ、と息を吐きながら両肩を落とす。幾らか後ろ向きなことも考えはしたが、実際はそこまで嘆くことではないと、誰に言われずとも理解していた。むしろ欲張りであることも、自分で認める程度には。

「贅沢な悩みだわ」苦笑交じりに、誰にともなく呟く。「不満を覚えたら、それこそ罰が当たるくらい」

 彼女の夫であるヴィルヘルムは閨事の際こそ強引で荒々しいが、暴力を振るうことはなく、政治的な能力に欠けることもない。酒にも賭にも興味はなく、女に溺れ不義理を行う様子も見せず。上を見ればきりがないとは良く言うが、世間一般の基準で考えたならば、彼女の結婚もまた酷く幸せなものと言えるだろう。互いの情が間にないのは、家の為の結婚ではごく自然に有り得ることだ。彼女が夫を慕えたことの方がむしろとても幸運と言えるだろう。少なくとも夫との結婚自体に不満はなかったし、この先心変わりすることもないと、漠然とそう思えるのだ。
 決して悪い境遇ではない。薄く笑みを浮かべてから、彼女はそっと目を伏せる。

「……子供を産んで、」

 両家の繋がりを確固たるものにすると同時、ヴィンチェンツォ家の安泰の為に第一に必要となるのはそれだ。彼女に最も──或いは唯一──望まれている役目とは、跡継ぎを産むことに他ならない。
 それさえ果たせば、後はそう。

「家の為に……慎ましく……あの方の指示通りにして……妻としての役目を果たす」

 それで良い、それだけで良いのだ。差し出た真似をすることもなく、歴史に名を残すこともなく。ただ言われたままに行動し、夫に付き従っていれば良い。ヴィルヘルムの判断は何時でも正しく、間違った試がないのだから、何も考えずに指示されたことのみをこなせば、万事は上手くいくだろう。思考を巡らせる必要はない。疑問を挟む必要もない。ある意味では最も楽な生き方だ。それさえすれば、煌びやかなドレスも、眩いばかりの宝石も、馳走も贅沢も何もかもが手に入る。
 ……そう、理解してはいるのだが。

「……難しいものね」

 欲を捨てるということは、と、彼女はぽつりと呟いた。
 同時、ノックの音が耳朶を打ち、次いで聞こえてきた声に迷うことなく入室を許す。この屋敷で、彼女が誰よりも聞き慣れた声音を持つその人物は、残念ながら夫ではない。実家から一人だけ連れてくることを許された、昔から彼女の世話をしている、そう歳も離れていない侍女だった。

「奥様……」エリーザベトへと声掛けをしようとした侍女は、そう間を置かずにその表情を曇らせた。「またお悩みですか?」

 尋ねられた内容に、すぐさま答えは返さない。誰よりも長い付き合いであり、誰よりも親しくしてきたのだ。気が臥せっていることに気付くのもさして難しいことではなかったのだろう。

「……ふふ、」

 口許に手を当てながら、エリーザベトは酷く大人びた笑みを浮かべた。そうして、再びその目蓋で目を隠す。

「……少しね」

 絶対的な信頼の置ける侍女ではあるが、決して心配をかけて良いことと同義ではない。そもそも彼女は今や伯爵の妻なのだ。いつまでも誰かを頼るような弱さを持ち合わせてはいられないと、それは彼女自身の意思でもあった。夫と幾らか歳が離れ、彼女の方だけが未だ幼いとも表現できる年齢であれば尚更だ。
 それでも、気持ちだけでは変えられはしないものもあるのが、現実。

「駄目ね、わたしは」傍らの本を見下ろしながら、彼女は苦笑交じりに返す。「中々子供が抜け切らないわ」

 未だこの本を手放せずにいるのが何よりの証拠だろうと、彼女はひっそり自嘲した。とうに夢を見る時期は過ぎたというのに、暇を見付けては飽きることなく読み返す。それも自分とは関係のない話なのだと割り切った上でのことではない。何処かで、確かに存在するのだ。このようなことを、未来に期待する自分が。

「恋愛小説ですね」

 迷いなく侍女が口にしたのも無理はない。幼い頃、エリーザベトはこの本を何処へ行くにも抱えて移動する程に特別気に入っていたのだから。読んだことこそないはずだが、大凡の内容はこの侍女も理解しているだろう。だからこそ、エリーザベトは大袈裟に両肩を上げてみせた。

「それも非現実的な、ね」

 皮肉とも取れる表現を用いたのは意図的だ。実際に、彼女はそれを明確に指摘された──他でもない、彼女の夫のヴィルヘルムに。

「幼い頃に交わした結婚の約束を果たす為に、成人したお相手の方が迎えに来る話……」

 適当な箇所で僅かに開くと、はらはらと紙を落とすように閉じていく。
 飽きることなく何度も読んだ物語。意識せずとも蘇ってくるセリフや表現の数々。そして最後に浮かぶのは、彼女が最も憧れた場面。

「主人公の好きな薔薇の花束を持って……愛を告げながら渡すの」
「奥様が好きだったお話ですね」

 何処か楽しげに、それでいて懐かしげにしている侍女に、ええ、と彼女も微笑した。
 良くある話ではあった。それでも彼女が気に入ったのは、無論作者の腕もあったが、それ以上に大きな理由が一つある。

 ──そうなれば良いと、自分の夢が凝縮された、決定的な場面がこの話にはあったのだ。

 過去の自分を思い返し、可笑しさの余りに彼女はおどけたように笑ってみせた。

「昔は良く聞いたものだわ……『ヴィルヘルム様は、わたくしを迎えに来て下さるときに、薔薇の花束を持って来て下さるかしら?』」

 エリーザベトの最も好きな花も薔薇であり、そしてまた結婚を──エリーザベトの場合は形式上は既に果たしてはいたのだが──する相手が、それを携えてやってくる。長いこと彼女を求めていたのだと、愛していたのだと、そういう想いを花束に込めて。
 もしかしたら、自分にもそのようなことが起こり得るのではないか……と。膨らむ一方の期待を一心に込めながら、エリーザベトは度々彼女の元を訪れた夫からの使者だという男性に、幾度となくそれを尋ねた。きっとそうだと、肯定が返されるのを望みつつ。

「……まさか尋ねたお相手が、そのご本人とは知らずにね」

 だからこそなのだろう。いつだって彼は口を噤んで、何を返すこともなかった。さあ、と拒絶交じりにはぐらかされたことこそあれど、彼女が期待するような反応はいつだって示されることはなく。むしろ不機嫌な表情すら浮かべて押し黙るものだから、彼女の方も次第に質問をしなくなった。しつこいという自覚はあったし、聞いてはいけないのだと悟った。
 ……流石に、その相手が夫本人であることまでは予想もしていなかったが。

 何も知らずに尋ね続けていた幼い妻は、夫の目にはどのように映っていたのだろう。問いかけたところで返答があるとも思えない。ただ、一つだけ、弁明をさせて貰えるならば。

「……待っていたと、仰って頂きたかったの」

 エリーザベトが、十二で彼に嫁いでからの五年間。妻としてはまだ幼く未熟な彼女は、ヴィンチェンツォ家の所有する田舎の別邸で隠されるようにして、夫と会わずに育てられた。時折夫のいる屋敷から訪れる使者を仲介しての手紙だけが、顔すら知らぬ夫との唯一の繋がりであり、自分が彼に忘れられてはいないことの証だった。
 だがそれは、揺るぎない自信を持つ為には、酷く頼りなかったのだ。

 誰が見ても明らかな程の政治的な結婚。幾ら彼が圧倒的なまでの支配力を有していようとも、別の屋敷で働く者の口にまで戸は立てられない。未だ幼かったとはいえ、彼女は使用人達が囁き合う下世話な話を耳にしない程鈍くもなく、またその内容を理解できぬ程理解力が足りぬこともなく。自らが軽んじられているとは知りながらも笑って過ごしている裏で、痛切なまでに一つ願った。

 忘れていたわけではないと、邪魔だから遠ざけていたのではないと、この結婚は、そんな感情を全て置き去りにした冷たいものではないのだと、そう証明して欲しかった。幾らかは望まれているのだと思いたかったし、僅かでも想われていると信じたかった。この本に書かれていた結末のように、離れている間でも、彼の心の片隅には、自分の存在があったのだと。
 実現すれば、確信できると思っていた。一輪でも構わない、いっそのこと花はなくとも構わなかった。

 ただ、彼が迎えに来てくれれば、と。

 長い間願って止まなかった頃を思い出し、彼女は静かに庭を眺めた。
 不思議と感情の動きはない。凪のように穏やかだった……まるで、夜の闇の中に一人で佇んでいるかのように。

「……結局、最後まで迎えに来ては下さらなかったけれど」

 十七の誕生日に迎えに来たのは正真正銘の使者であり、そのまま馬車に乗せられると、慌ただしく移動した先で、本格的な式を挙げた。残念なことに多忙な夫はその日すらも例外ではなく、一日を通してもほとんど会話を交わすことができなかったのを今尚鮮明に覚えている。賛辞もなければ、労いもなく、ただ予定のみを簡潔に告げてくる夫に、そういう関係の夫婦になるのだと理解した。今思えば普段にも増してあの日は無口であった気もするが、あの夫が緊張するとも思えない。ただ形式上必要なだけの結婚式というものが煩わしかったのかもしれないと思うと、つい苦笑が零れ出た。

「奥様……」
「昔の話よ」

 憂いを帯びた侍女の呼びかけに、軽やかな声で返してみせる。侍女には酷く弱々しく聞こえてしまったのだろうが、実際そこまで落ち込んでいるわけではなかった。今更どうこう言ったところで過去は変えようがないのだ。延々と嘆いているような彼女ではない。

 改めて庭を眺めれば、僅かに離れているものの、色とりどりの花が咲き乱れている場所がある。赤を基調としたその花々は、この部屋からは到底種類等分かり得ないが、彼女は誰よりも良く知っていた。それが、彼女に与えられた庭であり、何より好んだ薔薇を植えて貰ったのだから。その事実にすっかり気を取り直したエリーザベトは、無邪気なまでの笑みを浮かべた。

「考えてみれば、わたしは花束どころか薔薇園を頂いたんだもの。余程凄いことだわ! そうは思わない?」

 肩越しに侍女を振り返りながら口にしたのは、強がりではなく本心だった。妻として夫に全く気にされていないというわけではない。それを思えば、彼女を悩ませていたものも大したことではないと思えた。正しく言えば夫が彼女に与えたのは土地のみであり、薔薇を選んで植えるよう希望したのは彼女なのだが、その程度の差は些細なことだ。

 花束ではなかったが別に良い。どれ程細やかであろうとも、彼女という存在は彼の中に確かに存在しているのだから。それに、そうだ。あれだけの薔薇が咲き乱れているのだから、数えきれない程の花を贈られたのだと思えば良い。そう考え付いたところで、ふとエリーザベトは唇を閉じた。

「そうだわ……」

 唐突に閃いた内容に、彼女は顔を綻ばせる。まるで少女に戻ったように──彼女はまだ二十歳に満たぬ若さであり、実際少女と称しても差し支えはないのだが──夢見るような眼差しで、遠くの庭を見据えた。

「わたしから差し上げれば良いのよ! 何も男性側からではないといけないという決まりはないわ!」

 願った形とは異なるが、もう一つの憧れである夫婦の他愛無い遣り取りに関しては、花を話題にすることで達成できるかもしれない。少なくとも何もしないよりは余程可能性があるだろう。
 これこそ上策だと思わず両手を叩いた彼女だったが、ふと頭を擡げた疑念にすぐさま細い首を傾げた。

「……でも、ヴィルヘルム様は花束は余り喜ばれないかしら?」

 実用的ではないそれを喜ぶ夫という図が不思議な程思い浮かばない。花を目にすることで心安らぐということがあの夫にもあるのだろうか? 無駄なことをと言われてしまえばそれまでだ、全く意味がなくなってしまう。それでは摘まれた花も不憫だろう。
 
「どうすれば良いかしら……」

 考え込んでいる彼女は全く気付かなかった。

 彼女に従うように思案を巡らせている侍女以外に、もう一人、その会話を耳にしていた者がいたことに。

* * * * *

 善は急げとばかりに庭へと足を運んだ彼女は、咲き乱れる大輪の薔薇達を目の前にして、屈み込みながら一人思い耽っていた。
 花を好むかどうかすら不明である以上、まずは飾って反応を見ることから始めようという計画だ。が、その場所というのがまた悩ましいところであった。

「寝室に……」

 最初に浮かんだ候補は、しかし良い考えとも言い難い。夫は深夜にしか寝室には戻らないし、大抵の場合はそんな変化を楽しむ程の余裕はない。ただ寝るか、身体を重ねるか。どちらにせよゆっくりと明かりを灯した上で室内を見回すようなことはなく、ただ目的のみを遂行する。起き掛けであれば目にすることもあるだろうが、彼女が起きられない以上、言葉を交わすのは不可能だろう。反応を確認することも不可能だ。出来れば何らかの遣り取りをしたいと願っている限り、妥当な案とは言い難かった。

「それとも執務室……いえ、まずはわたしの私室から……」

 どこから飾ってみるのが妥当だろうか。彼女が好きにできる領域で、尚且つ夫の反応を確かめることができる場所。悶々と考えている最中。さくり、耳に飛び込んできた地を踏みしめる音に、彼女は反射的に振り返り……そして、目を見開きながら即座に立ち上がる。音がしたのは意図的だろう。彼女に来訪を気付かせる為にそうしたのだと悟ったからこそ、屈んだままでは無礼だと思わせられたのだ。

 緩やかな癖のあるやや長めの黒髪に、対峙する者を萎縮させる力を持った切れ長の瞳。厳格さで彩られた険しい表情に柔和な雰囲気は丸でなく、ほとんどの者が、例え何も非はなくとも、今にも叱責か、或いは酷く咎められそうな心地にさせられる。
 高貴さと共にそんな張り詰めた雰囲気を持ち合わせている人物は、彼女の知る限り唯一人だ。

「ヴィルヘルム様……!」

 例に漏れず、彼女もまた緊張させられる人間だった。幾許かの焦りを抱きつつ、彼女ははしたなくない程度の速さでヴィルヘルムの──夫の元へと駆け寄った。

「どうして此方に?」

 夫であるヴィルヘルムが日中彼女の元を訪れるのは、急用があるときのみだ。用事があろうと余裕があれば使いで呼ぶし、何もなければ顔を合わせることもない。精々、夫婦共用の私室で紅茶を飲む程度のものだ。わざわざこの場まで足を運んだということは余程の用事があるのだろう。まさか無意識のうちに、何か酷い失敗でも自分はしでかしたのだろうか……ちらと浮かんだ考えに、つい彼女の顔も強張る。心当たりはないが、夫を前にすると何時でもそう思えた。ただでさえ強い力が宿されているいかつい眼光が、彼女を捉える際には、心なしか一層鋭さを増すのだ。勘違いだとは思いたかったが、どうやらそうではないらしいと彼女も悟ってきたところだった。

 彼の前に改めて立ったエリーザベトは、改めてじっと夫の目を見詰める。灰色がかった薄い青を湛えた瞳は、平生であれば凍てついた印象を与えて止まないはずなのに、一瞬、彼女を捉えて微かに揺れた。不思議に思って見上げてみても、すぐさま不機嫌に細められてしまったせいで、見間違えたのか否かは結局分からなかったのだが。

 しばしの沈黙。緩やかな風が彼女と彼の黒髪を遊ばせる中、彼は酷く緩慢な動きで唇を開きかけると、一度閉じ。硬く引き結んだ後で、ようやく再び開口をした。

「……受け取れ」

 愛想などは微塵も含まない言葉と共に、ずいと腕が彼女の眼前に突き出される。彼女の視界を遮るように埋め尽くしたのは、単純に彼の手ではない。肌色とはかけ離れているそれは、何処までも深い紅……大輪の、薔薇の花束だった。

「……………………え?」

 唐突過ぎるこの事態に、上手く処理が追いつかない。考えるより先に声が漏れ出たエリーザベトは、随分と長いこと、目の前の花束を眺めていた。
 信じ難い。そればかりが頭を占める。まさか、あの夫が、と。今まで一度たりともこのようなことをすることもなければ、そうする素振りすらも見せたことがなかったからこそ、今視界にあるもの全てが、酷く現実味に欠けていた。

「……わたくしに……ですか……?」

 思わず確認を取る彼女に、彼は俄かに柳眉を逆立てた。

「他に誰がいると言う?」幾分低められた声音は、明らかに彼女の問いかけが原因だろう。「さっさと受け取れ」再び突き付けるようにして迫ってくる花束に、彼女は考えるより早く、言われるがままに受け取った。
 茫然と抱えた薔薇を眺める。昔、彼女が痛切なまでに夢見たものの一つだった。小説で繰り返し読み耽った理想の場面の一つ……しかし実現した今、彼女の内を占めるのは、夢ではないかという思いと、それと同等の疑問だった。

 何故、いきなりこの事態になったのだろう。彼女が抱いた疑念を察したかのように、彼は不機嫌さをより色濃いものにする。

「この所、メイドに不満を訴えていたようだな」

 聊か咎めるような色を湛えて告げられた言葉に、はっとしてエリーザベトは顔を上げた。

 彼女が不満を口にしたことなど、ほとんどと言って良い程ない。そしてその中でこの行動に繋がり得るのは、今朝方の会話、ただ一度のみだった。
 夫は、朝の遣り取りを耳にしていたのだろうか。声に乗せることこそなかったが、彼女の浮かべた表情が雄弁に語っていたのだろう。彼は彼女から視線を外すと、ついと庭を見回した。興味の薄い眼差しは、彼がさして花というものに価値を見出していないことを思わせる。

「これだけの薔薇があるというのに、この上花束まで欲しがるとは……」

 非難と呆れを多分に含ませた声音で聞こえるようにそう言うと、彼は深々と息を吐く。

「欲深いと言うべきか……物好きなことだ」

 理解し難いと言わんばかりのその台詞を、普段の彼女が耳にしたならば、すぐさま謝罪していたことだろう。申し訳のなさ故に幾度も必死に頭を下げ、決して夫の顔を見られなかったに違いない。
 だが、幸いなことにと言うべきか、今の彼女はそうするどころではなかった。徐々に現実味を帯びてきたからこそ、込み上げてくる感情を抑えきれず、抱える腕に僅かながらに力を込める。

「それで……わざわざ、これを……?」

 幾らか小さくなった声で夫に問えば、彼はちらと彼女に一度視線を投げ、再び他方へと向けた。

「ああそうだ」

 酷く冷たく言い放ち、彼は改めて彼女に向き直る。彼女と長身である彼とでは目の高さに差はあれど、決して背を曲げることのない彼は、譲る気は毛頭ないとばかりに感情のない顔で目を伏せる。

「お前の願いはこれで叶えてやったのだから、もう金輪際、この件に関して不服とは……、」

 言わせない、と、恐らくは続くはずだったのだろう。途切れた宣言の原因が何であったのか、彼女にはすぐに理解できた。

 ──自分が、泣き出したからなのだろうと。

 感極まった彼女でも、その程度のことは察せられた。

「…………、」

 はたはたと無言で透明な雫を零す妻に、彼は唇を閉じて押し黙る。睨み付けるような鋭い眼差しでもって彼女を見据えている彼は明らかに不機嫌だ。今にも咎めにかかりそうなまでの表情を浮かべる夫の目の前で、彼女はくしゃりと顔を歪めた。

「申し訳、ございません……!」

 喉に詰まって言葉が上手く出てこない。それでもまずは謝罪をしなければと必死の体で伝える彼女に、彼は反応を返さなかった。唇が開く様子もない。そんな彼に、彼女は花束をゆっくりと差し出す。

「少し……後ろで、持っていて、下さい……」

 彼女の申し出を、珍しく、彼は無言で受け入れた。
 乞われるがままに後ろ手に花束を持った彼を視界に収めつつ、彼女は目元の涙を拭うと……思い切り、彼の首元に抱き着いた。

「ありがとうございます……っ!」

 高い声音で礼を告げたエリーザベトは、殊更腕に力を込める。彼女は今、自分が置かれている現実を噛み締めることに懸命で、それ以外は何も分からなかった。
 自分が今していることがどのようなことか自覚をしていなかったし、またされている側の夫が示した反応にも決して気付くことはなかった。普段であれば酷く躊躇われるが故に指先で掠める程度ですら触れることは決してない。ましてや、夫の表情を確認しないなどということは一度もなかった。

 彼女は夢にも思わなかった──彼女の取った行動に、夫が目を見開いていようとは。

 ようやく腕を放した彼女は、未だ大袈裟なまでに跳ね続ける胸を落ち着かせる為にと、両手で押さえては深々と呼吸を繰り返す。ある程度まで落ち着いた頃、ヴィルヘルムは無言で花束を差し出した。それを躊躇うことなく受け取ると、未だ涙が薄らと浮かぶ瞳で、彼女は改めてそれを眺める。彼女の庭に植えてあるものとは品種が異なっているのは恐らくは意図的なのだろう。それはつまり、この花束がこの庭以外で集められた花であることを暗に示していた。

 朝の会話を耳にした直後から動いてくれていたのだろうか、自分が最も好きな色を覚えてくれていたのだろうか、わざわざ違う品種の薔薇を探してくれたのだろうか……次々に浮かぶものは全て言葉にはならず、ただひたすらに笑顔となって溢れ出る。

「嬉しいです……っ! 本当に、わたし……!」

 潰さぬようにと細心の注意を払いつつ、彼女は受け取った花束を大事に大事に抱え直した。満開のものから蕾まで揃えてあるそれに、濡れた瞳を輝かせる。

「やはり、本では分からないことばかりですね……!」

 頬を紅潮させながら呟くように紡ぐ声は、やはり普段のそれよりも幾分高く、いかに気分が高揚しきっているのかを如実に夫へと伝えていた。無意識のうちにも顔が綻んでしまうのは偏に喜びの為だろう。尽きることなく生まれては溢れるそれに抗う気が起こるはずもなく、彼女は思い切り破顔しながら夫を見上げた。

「旦那様からの贈り物がこんなに嬉しいものだなんて……どの本にも、全く書いてありませんでしたもの!」

 表現としては知っていたのだ。幾らでも彼女は本を読んだし、恋愛小説は殊更好むところだったのだから。
 しかし、やはり百聞は一見に如かずとでも言うべきか。実際に己がその立場にならなければ、本当のところは分からないのだ。彼女が想像していたよりも湧き上がる感情は遥かに強く、喜びは尽きることがない。

 加えて、思う。

 ──これ程までの感情を表現したような物語は、この世界の何処にも、存在しないのではないだろうかと。

 決して長いとは言い難いこれまでの彼女の人生の中で、幸福だと感じることは幾度もあった。しかし、今回までの溢れんばかりの幸せを、満たされたような喜びを、感じたことのある人間は果たしてどれだけいることだろう? どれ程甘い物語の結末でも、これ程までの感情を書き記してはいなかった。
 だからこそ、彼女は自信を持って断言できる。

「わたしは世界一の幸せ者です……絶対に!」

 僅かに赤みを帯びた瞳のまま、満面の笑みでエリーザベトは言い切った。そうして花束を飽きもせず眺めている彼女は、じっと見下ろす夫の視線に気付く様子は丸でない。口許へと弧をしっかりと描いていた彼女は、不意にはっと我に返ったかと思えば、酷く慌てた顔をした。

「早く生けなくてはいけませんね! 大事にしなくては……っ!」

 枯れてしまっては困るのだろう。他の誰でもない、彼女の夫であるヴィルヘルムが、初めて彼女に贈った花。それも彼女が最も好む花の、最も気に入っている色だ。意図的なのか偶然なのかは判断し難いところではあるが、今の彼女にそれを考えている暇はない。

「申し訳ございません、ヴィルヘルム様。わたしは先に戻りますね!」

 既に頭にはそのことしかないのだろう。矢継ぎ早に言い放つと、夫の返答を聞くこともなく、彼女は酷く急いた様子で屋敷の方へと駆けていく。
 自然、見送る側へとなった彼は、僅かに唇を開いたものの、すり抜けるようにして風の如く去っていく妻の姿に、軽く噛むようにしてそれを閉じた。無意識のうちに捕らえんとして半端に持ち上げた掌は、結局何も掴めないまま握られる。

「…………くそ、」

 苛立ちにそう零しながら、くしゃりと前髪を押さえ付けた。一言、そう一言でも声をかければ、彼女とて彼の言葉を聞く為にこの場に留まっていただろう。それをしなかったのならばまだ良かった。最も許し難いのは自分自身だ。彼は声をかけることをしなかったのではない。出来なかったのだ。──彼が想定していたよりも、遥かに喜んだ彼女の姿に、どうすれば良いのか全く分からなかったから。

「何故、こうも……」

 一言も伝えられずに終わるのか、と彼は独りごちてから、深々と息を吐き出した。好い加減苦々しい気分に陥るのは御免だと幾度となく思わされ今日という日まで来たというのに、結局はいつもと変わらない。彼女は何も知らぬまま、無邪気な微笑みだけを残し彼の手からすり抜けていく。
 僅かに乱してしまった髪を手櫛で整え、彼はふと彼女が眺めていた薔薇を見下ろした。

『わたしは世界一の幸せ者です……絶対に!』

 一片の迷いもなく言い切ってみせた彼女の言葉を思い出し、彼は静かに目を細める。眼下に咲いている穢れを知らぬ白薔薇を眺め、そっと指先で撫でるようにして触れた。

「…………世界一であってたまるものか」

 ぽつりと呟いたのは妻に対してのものであり、また同時に彼自身へ向けてのものだ。
 現時点で、しかもこの程度のことで。それ程までに大層なことを確信されては困るのだ。欲がないと言えば美徳にも成り得るのだろう。
 しかし、それでも。

「未だ、何一つ……」

 彼女には伝えていない。彼女は未だ、何も知らない。
 本当は告げるはずだった。繰り返し幼い彼女が報告してきた本に書かれていたような甘ったるい台詞でこそないが、酷く大切な……とても重要な真実を。

『……待っていたと、仰って頂きたかったの』

 幼かった彼女の、願い。それを想い、彼は指先で花を撫でた。

 今頃彼女は慌ただしく花の世話をしているだろう。そして、彼の嫌味を交えた指示とは関係なしに、もうあのような不満を訴えることはなくなるのだ。
 望んだのは彼自身だ。だが本来は口振りのように高圧的な命令染みたものではなかった。

 続きがあるはずだったのだ。

 彼女が本当に……本心から、もう二度と望む必要がなくなるものが。

「…………エリーゼ」

 ついに今日もまた彼女へ向けて紡げなかった愛称を唇から音に乗せ、彼はそっと目を伏せる。

 目蓋の裏に焼付いているのは、ただ、彼女の笑顔だけであり。
 彼の本心を知るのは未だ、彼唯一人だけだった。




titile by 『たとえば僕が』

Home Back
inserted by FC2 system