きみの笑顔があればいい

※ヴィルヘルム様×子供エリーザベト / ほのぼの?

 ヴィルヘルム・ヴィンチェンツォからの使者だという若い男が、エリーザベトの暮らしている屋敷に訪れたのは、丁度午後の三時を回った頃だった。

 不定期且つ毎度唐突なその来訪者をエリーザベトの部屋まで案内したのは、彼女の実家から唯一人ついてくることを許された彼女専属の侍女だ。
 前触れのない訪問だった為だろう。今日はほとんどの者が各々の用事の為に屋敷を出払ってしまっている。その状況に、男を案内している侍女は内心僅かに安堵していた。

 この屋敷内において、彼女の主であるエリーザベトの扱いは決して良いものとは言い難い。そしてそれは、直接エリーザベトに仕えている彼女への態度にもそのまま繋がっているのだ。無論、ヴィンチェンツォ家の現当主であるヴィルヘルムの婚約者ともなればあからさまに冷遇はされないが、ふとした瞬間、さりげなく棘や毒を含ませた言動に込められた意味は、彼女にも、そして恐らくはエリーザベト本人にも伝わっていることだろう。理由は、口にされずとも察していた。

 エリーザベトは、ヴィルヘルムのことを何も知らない。
 ――婚約者であるヴィルヘルムは、未だ一度もエリーザベトの元を訪れていなかった。

 自分の屋敷、それも別邸で暮らすよう要求しておきながら、ただの一度も来訪しないのは、エリーザベトの存在を軽んじている為なのか。……疑念が事実だと確信するには至らずとも、周囲はそう考えていることなど、エリーザベトとその侍女に対する言動の端々から察することは容易だった。

 ヴァイセンブルク家の一人娘であるエリーザベトに結婚の話が持ち上がったのは、彼女の両親が流行病で相次いで亡くなった直後のことだ。幸いエリーザベトには十離れている兄がおり、後継者の問題こそなかったが、急な当主の交代に地盤が微塵も揺らがなかったと言えば嘘になるだろう。戸惑いと混乱の中、唐突にヴァイセンブルク家を訪ねて来たのが、ほぼ同時期に家督を継いだ、現ヴィンチェンツォ家当主――ヴィルヘルム・ヴィンチェンツォだった。

 彼の示した要求は三点。
 先代同士で話がついていたヴィルヘルムとエリーザベトの婚約を、正式なものとして認めること。
 エリーザベトが十七歳を迎えたらヴィンチェンツォ家に嫁がせること。
 それまでの間、ヴィルヘルムの管理下で暮らすこと。

 両親からそのような話を一度として耳にしたことがなかったエリーザベトの兄は酷く驚いたが、ヴィルヘルムから渡された先代同士で交わしたらしい証拠の手紙の数々に、事実と認めるより他なかった。

 親の代から懇意にしており、既に政治的手腕に高い評価を得ていたヴィルヘルムと諍いを起こすのは得策ではない。……そう判断した周囲に促される形で、いくつか条件を飲ませた上で、エリーザベトの兄は正式に二人の婚約を認めた。――そう、侍女は屋敷の者達から聞いている。生憎と彼女はエリーザベトにつきっきりで屋敷の奥にいた為に、尋ねて来た者達と同席はおろか、顔を見る事すらなかったが。

 以降は文字通り瞬く間に全ては進み、一週間後にはエリーザベトはこの侍女一人を共にして、ヴィンチェンツォ家の別邸であるこの屋敷へと移された。最後の最後まで連れて行く使用人の数で揉めたが、ヴィルヘルムは頑として二人以上の同行を認めなかったらしい。対面そこしたことはないが、余程疑い深い性質の男性なのだろう……と、蘇った怒涛の日々を回想しつつ、侍女はちらりと肩越しに後方を歩く使者を見た。

 僅かに使者の顔立ちが彼女の記憶に引っかかるのは、恐らくは彼が先代の頃から使えている為なのだろう。若くはあるが、この屋敷の使用人達からあれ程丁寧に接されているのだ。新入りでは決して有り得ない態度に、そう見当をつけていた。

 ヴィンチェンツォ家は、エリーザベトの両親が存命だった頃から比較的懇意にしていた一族だ。エリーザベトは様々な事情から屋敷の奥で育てられ、限られた親族や使用人以外に姿を見せることもなかった為に、専属の侍女である彼女もまた来客と顔を合わせることは少なかったが、それでもヴィンチェンツォ家の先代当主とその妻……ヴィルヘルムの亡き両親の顔程度なら知っている。生憎と、息子である当のヴィルヘルムに関しては、容姿を覚えていなかったが。

 ふ、と侍女が溜息を吐き出したのは、最低ではないとはいえ、ヴィルヘルムとの婚約に聊かの不安を抱えているからに他ならない。

 エリーザベトの兄同様、若くして母を、そして最近馬車の事故で父を亡くし、家を継いだヴィルヘルムは、年齢からは到底考えられぬ程の手腕で領地を治めていると聞く。が、その人柄は非情に厳格であるとも、人並み外れて気難しいとも、とてつもなく冷徹であるとも言われており、その評価を裏打ちするかのような噂に関しては、この別邸内においてすら全く絶えることがない。少なくとも、使用人達からも怖れられていることは疑いようのない事実だった。

 政治的手腕に関しては目を瞠る成果も多々あることからして信頼に値するだろう。だが、夫としてはどうなのだろうかと、どうすることも出来ない立場とはいえ、侍女は一人疑問を抱かざるを得なかった。

 何せ、幾ら先代同士で決めた形跡があるとはいえ、周囲を固めることもせずに真正面から話を持ってきた上で、自らの要望全てを通させる程の男なのだ。真っ向から対峙することも厭わない強固な姿勢も如実に伝わってきたことに加え、傲岸不遜とも傍若無人とも評される理由も、この度の経緯から理解させられた。幸いなのは、エリーザベトとは十程離れているとはいえ、まだ若い上、初婚でもあり、女や酒や賭け事等、そういった類の問題があるという話を聞かないことだろう。だが、果たしてそれだけでエリーザベトはこの先幸せになることが出来るのだろうか。幼い頃より仕えている侍女は、ただそれだけが心配だった。

 二度目の嘆息をしたくなる気持ちを抑え込みながら、幼い主と数歳しか離れていない年若い侍女は、再び後方を歩く男性をちらと控えめに振り返る。
 夜を従えたような癖のある黒髪、空よりも薄く灰色がかった鋭い双眸。今は伏せがちになっている目蓋は長い睫毛に縁取られており、酷く端正な顔には何の感情も浮かんでいない。ただ厳格さだけを纏わせているのは、彼の主人であるヴィルヘルムの性情が影響しているのだろうか。上品、気高い、端麗という表現が相応しいことには間違いないが、柔和さというものが欠片も見当たらないこともまた事実であった。

 普段であれば必ず一番の上役が出て行き、最上級に遜(へりくだ)った対応をしている辺り、この男性の地位は仕えている者の中でもかなり高いものなのだろう。その上、エリーザベトとこの男性が面会をする際には必ず全員が席を外すようにと、夫であるヴィルヘルム直々の指示があったことからも、相当な信頼を当主から買っていることが窺えた。――正直なところ、気難しいと言われている当主に受け入れられるような人柄とは侍女には到底思えなかったが、真面目さが買われたのだろうか。そもそもまだ幼さの残るエリーザベトへの使いに寄越すにしては子供を好きそうには見えないので、お世辞にも適任とは言い難い……等々謎は多くあるのだが、当の本人であるエリーザベトは気にした様子が丸でないので、一介の侍女に過ぎない彼女も今の所口を挟むことはしていない。

「……何か」

 侍女の視線に気付いたのだろう。片眉を上げて問う彼に、思わず彼女はびくりと肩を跳ねさせて萎縮する。どうにも苦手だと焦る気持ちを押さえつつ、彼女は必死に表情を保った。

「いえ、」

 咄嗟にそれだけ返しつつ、即座に前方へ目を逸らす。幸い、そこには目的地であったエリーザベトの私室――これもまた不思議なことに、彼は必ず客間ではなくこの部屋に毎度通される――であった。ノックをすれば、まだ幼さの残るあどけないソプラノが返される。ヴィルヘルムからの使者が訪れたことを告げれば、「まあ!」と嬉しげな声が響いた。これ程までに子供から避けられそうな男も珍しいだろうに、エリーザベトが酷く懐いているのを不思議なものだと感じたことは、胸の内だけに止めておく。

「どうぞ」

 扉を開けば、奥からドレスの裾を翻しつつ小走りに部屋の主がやってくる。それも、酷く嬉しげな満面の笑みをその顔へと湛えつつ。

「久し振りね!」
「前回の訪問から二週間です」高揚していることが如実に伝わるエリーザベトに対し、彼の返答は素っ気ない。「そう久方振りでも無いかと」
「それはそうかもしれないけれど……」言い放たれたエリーザベトに気に留めた様子がないのは、そのような反応にも慣れてしまっているからなのか、彼女の気質の為なのか。「お客様も他にはいらっしゃらないから、余計に長いこと待っている気分になっているのかもしれないわ」
「成程」

 一応は得心のいった素振りを見せた彼は、横目に侍女へと視線をくれる。睨まれているわけではないと頭では理解していても思わず身を硬くしてしまうのは、鋭過ぎる彼の眼光の為だろうか。唇を引き結んだ侍女は、彼の無言の指示をすぐさま悟る。――席を外せと告げられているのだ。

「失礼致します」

 努めて平静を装いつつ、侍女は深々と頭を下げて退室する。その侍女が部屋を出たところでこっそりと安堵の息を吐いたことを知る者は彼女の他にはいないだろう。室内に彼と共に残された幼い主を密かに案じつつ、彼女は持ち場へと戻っていった。

 一方、エリーザベトの私室に留まった彼は、侍女の気配が遠のいたことを確認し、ついと部屋の主に目を向ける。灰色がかった薄い青色の瞳に映し出されるのは、まだあどけない少女だった。
 手入れの行き届いた艶やかな長い黒髪は先が緩やかに巻かれており、頭には薄い色のリボンが結ばれている。淡いアイボリーの生地へと控えめに散らされているのは彼女の好む薔薇の細やかな柄であり、大量のレースをあしらったドレスを纏う彼女は、酷く愛らしい顔で笑いながら使者の間近まで歩み寄ると、じっと彼の瞳を見上げた。

 己の胸元程度までしかない背丈の少女を見下ろす使者の眼差しは、大抵の者であれば威圧的に感じるだろう鋭さを微塵も隠していない。が、どうやら彼女は例外らしい。萎縮した様子など微塵も見せず、人懐こい笑顔はそのままに、嬉しげに目を輝かせた。

「ヴィルヘルム様はお元気?」
「特に問題は無いと聞き及んでおります」

 仮にも使者が話しているのは主の婚約者であるはずなのだが、彼の表情は微塵も動かず、口調に関しても相変わらず素っ気ない。が、それでも喜ばしかったのだろう。そうですか、と返す少女の声は酷く弾んでいた。

「お仕事でお忙しいと伺ったから……お元気なら良かった!」

 にこにこと笑う彼女は、誰が目にしたとしても本心から安堵したことが見て取れただろう。ぱちりと両手を胸の前で合わせながら顔を綻ばせた彼女に、ここへきて彼も見下ろす双眸を僅かだけ細めた。

「……貴女は……」
「はい?」

 声をかけようとした彼は、見上げてきた一対の青色を目にすると反射的に口を噤んだ。幼いながらも、美人と評して差支えないだろう美しくも愛らしい顔立ちをした少女は、歳を考慮しても尚幼さを漂わせつつ、澄んだ瞳で彼を見詰めてくるばかりだ。一瞬だけ戸惑ったように眉根を寄せた彼は、再び厳しい表情を浮かべると、気を取り直したかのように腕に抱えていたものをずいと彼女に差し出した。

「此方を」
「まあ!」

 眼前に現れた品物に、彼女はすぐさま青い目瞳を輝かせる。彼が差し出したのは、金の刺繍が施された書物……真新しい本だった。題名からして恋愛小説なのだろうことが窺えるそれを受け取り、彼女は僅かに頬を紅潮させる。

「ヴィルヘルム様から?」
「ええ」

 短い肯定を受け、彼女は思い切り破顔しながら強く本を抱え込んだ。

「ぜひお礼を……あっ!」

 何かを閃いたと同時、彼女は書き物机へと身を翻す。小さな背中を視線で追っていた使者は、彼女が机上から手に取った物に行動の理由を理解した。

「少し待っていて頂戴ね!」

 椅子に腰掛けペンをインクに浸した彼女は、手に取った封筒から白い便箋を丁寧に取り出す。見慣れた物として使者の脳内で処理されるのはごく自然なことだった。
 いつ何時に使者が訪れても良いようにとほぼ常に用意されているそれは、彼女にとって唯一つの連絡手段――婚約者であるヴィルヘルムへ向けた手紙だ。

「手紙にお礼を付け加えるから……またヴィルヘルム様に届けて欲しいの!」
「畏まりました」

 彼の了承を得たところで、彼女は熱心に言葉を書き連ねていく。すらすらと紙にペンが走る音のみが響く中、何とはなしに彼は室内を見回した。実家から嫁入り道具にと持参した物が幾らかはあるが、私物らしき物はほとんどない。精々棚へと敷き詰められた本と、丸みを帯びた肘掛椅子程度のものだ。椅子の上に座らされている兎を模した縫い包みは、今のところ彼女の夫――正式に結婚はしていないが、彼女にはもうそのように考えるようにと教え込んである――ヴィルヘルムが彼女に贈った物であることに気が付いたところで、彼はふと思い至った事項に唇を開く。

「……以前の本は?」
「もうすっかり読み終えたわ!」

 一度区切りがついたのだろう、瞬間的に顔を上げた彼女は、そこに楽しげな笑みを浮かべた。その表情に偽りがないことを隈なく確認する使者の視線に、気付いているのかいないのか。エリーザベトは無邪気な表情を変えることなく、こてんと小さく首を傾げる。

「出来れば繰り返し読みたいのだけれど……お返しした方が宜しいかしら?」

 彼女からの問いかけに、否、と使者は短く返した。

「貴女へと贈った物です。お好きになされば宜しいかと」
「そう」

 ありがとう。とにこやかに返し、彼女は再びペンを走らせる。そうして何度も文章を確認した後、彼女は丁寧に便箋を封筒に仕舞い込むと、封蝋と印を施した上で、使者の元へと持って来た。

「では、こちらを」
「確かに」差し出されたそれに間違いなく彼女の印璽が押されていることを確認すると、彼は上着に仕舞い込む。「必ず渡しましょう」
「お願いね」

 微笑む少女を見下ろし、彼は思案するかのように鋭い目を僅かに細めた。真一文字に引き結ばれた唇が幾度か動きかけた後、ようやく重く開かれる。

「……最近は、余り感想が手紙にないと聞きましたが」
「ヴィルヘルム様がそんなことを?」

 驚いたように目を瞠る彼女に、男性は無言で首肯した。

「手紙自体も少なくなっているとか。……頻度も、内容も」

 事実、これまでは彼を通さずとも、ヴィルヘルムの元へこの屋敷の誰かが赴く際には、彼女は必ずと言って良い程に手紙を持たせて寄越したのだ。それが、ことのところはこの使者に渡す分のみ……半分以下の頻度にまで減っている。加えて以前は分厚かった封筒の中身も、今では二、三枚の便箋のみに止まっている。総合的に考えればかなりの激減だった。
 そのことに自覚はあったのだろう、彼女は悔いたように眉を八の字に下げる。

「気にされているご様子だった……?」
「幾らかは」短い返答を耳にした少女が酷く塞いだ表情を浮かべたので、彼は急いで言葉を続けた。「人には余り、そういった姿は見せないものです」

 彼は彼女の変化の理由を、ヴィルヘルムがさして気にしていないのだと――彼女の手紙が減ったところで意に介していないと受け取り、落ち込んだものだと解釈したからこそ、そのように補足をしたのだが、どうやらそうではないらしい。元に視線を落とした少女は、未だ困ったような顔をしていた。

「……何か?」

 何かあると踏むのは容易い。尋ねてみれば、幾許かの逡巡の後、秘密にしておいて下さいね、と断りながら、彼女は小さく唇を開く。

「……ヴィルヘルム様は、最近特にお忙しいので、あまり余計なことは書かないようにと……手紙自体も、可能な限り減らすようにと」

 彼女が告げた内容に、彼は僅かに眉を顰めた。
 彼自身はそのような指示を一度も彼女にしたことはない。ヴィルヘルムが中々に多忙であることは事実ではあったが、それは今に始まったことではないのだ。むしろ彼女をこの屋敷に連れて来た時期の慌ただしさに比べれば、現在はまだ落ち着いている方だろう。深く考える程に募っていく不快感に、彼は眼差しを険しくさせる。が、彼女の方は自分の判断に対する後悔で、それに気付く余裕がないのだろう。

「なるべく短い方が、お手を煩わせることもないかと思ったのだけれど……」ぽつりと呟いてから、力なく頭を振った。「……やっぱり、戴いた以上は、気持ちをきちんと返した方が良いのだわ。礼儀もあるもの」

 結論を自分で導き出したのか、彼女は薄いながらも笑みを確かに顔へ浮かべると、彼へと白い手を差し出した。

「では、さっきのお手紙を……、」
「これは渡します」

 きっぱりと言い放った彼に、彼女は戸惑いの色を浮かべた。

「ですが、その手紙には……」
「構いません。話は私からしておきます」

 未だ迷うような表情を浮かべるエリーザベトに、使者は真っ直ぐに彼女の瞳を見据える。有無を言わさぬ双眸は、それでも平生に比べれば幾らか高圧的な光は鳴りを潜めており。

「――奥様は、何も、お気になさらず」

 言い聞かせるその声は、ただ二人のみが存在する室内へと静かに染み渡っていく。特別強制しているわけでも、脅しにかかっているわけでもない。それでも使者のその声音には、そうするべきなのだろうと、抵抗なくすとんと納得させるような不思議な力があった。更に何事かを言い募る気が彼女から完全に消えたことを悟ったのだろう、彼は僅かに眼差しから険しさを抜く。

「他には、何か」
「え、ええと、では……」

 良い機会だ。念の為にと尋ねれば、やはり他にも彼女が抱えていた悩みはあるらしい。恐る恐るといいった体で長身の彼を見上げつつ、彼女は酷く緊張した面持ちのまま、こくりと息を飲み込むと、胸の前で祈るように手を組んだ。

「……ヴィルヘルム様は……その、ハンカチのことは、何か……」
「ハンカチ?」
「あ……いいえ」

 心当たりがないと疑問を顔に表した彼に、彼女はすぐさま言葉を引っ込めると、静けさを帯びた笑みを浮かべた。

「良いの……ご存知なければ、それで」

 普段であれば同じ年頃の少女よりも幾分幼さを漂わせているというのに、こういう時に限って取る態度や表情が酷く大人びて見えるのは、大貴族の令嬢という彼女の生まれの為だろうか。或いは、保護する者がいないが故の、上に立つ者としての意識が、無自覚のうちにそうさせることを強いるのか。

 親は二人とも既に亡く、実兄ともまた連絡を取る手段はない。夫になるはずの婚約者は離れて暮らしている為に会う機会もまるでなく、実家から連れて来た侍女は彼女よりは僅かに年上ではあるが、それでも所詮は誰かに仕える側の身だ。世話を任せることはあっても、甘える相手とはまた違う。

 結局のところ、今の彼女には隣に立つ者などいないのだ、と。
 不意に感じさせられた彼は、一瞬強く唇を閉じると、彼女の前で片膝をついた。

 そのまま顔を上げてみれば、普段は見下ろしている彼女の顔が彼の視界全てを占める。覗き込むような形で映した彼女は酷く新鮮で、その近さ故に、気付くことも多々あった。
 青く澄んだ瞳は彼のものよりも幾らか濃く、深みのある色は空というよりは海のそれを思わせる。カールした長く豊かな睫毛に、薔薇色の頬。化粧をしていないにも関わらずしっかりと赤を帯びた唇はふっくらとしており、雪のように白い肌に良く映える。荒れている箇所等全くない素肌はそのまま彼女の純粋性を表しているかのようで、彼は頬へと触れる代わりに、そっと彼女の手を取った。

「――お話し下さい」

 慌てることなく、ただ彼の行動を見詰める彼女に、それだけを静かに告げる。
 ……灰を帯びた氷を思わせる薄い青に、幾らかの、温度のある感情をそっと乗せながら。

「包み隠さず……全て、私に」

 何処か願うような響きと同時、はっきりと音に言葉を乗せたのは、意思の強さの表れだろう。信頼を勝ち得なければならなかった。幼くも自分の立場をしっかりと認識しているのだろうこの少女に、全てを吐露させるには。

 そろりと手を握りつつ、もう片方の手で緩やかに彼女の甲を撫で上げた。柔らかな白い掌は無骨な彼のそれよりも酷く小さく、僅かでも力を加えれば容易く折れそうに思えた。ぎこちなさは拭えないが、それでも彼女を落ち着かせるべく数回それを繰り返せば、彼女はついに僅かに顔を歪めた。

「……………………刺繍を、」

 幾度かの逡巡の後、ぽつりと、ようやく彼女は話し出す。一言たりとも決して聞き逃すことがないように、彼は全ての神経を彼女に傾けた。萎縮させるかのような表情の硬さが増しているのは、それだけ真剣だったからだ。

「ハンカチに施したの……縫い包みや御本のお礼を、少しでもお伝え出来ればと思って。それを、お屋敷に行く方に、渡すように、お願いを……」

 そのことを思い出しているからなのか、エリーザベトの表情は酷く沈んでいる。余程落ち込んでいたのだろうことが聞かずとも伝わって来て、彼は無言で目を細めた。
 確実に、それはこの使者とは別の人間に託したのだろう。彼は一度たりとも頼まれた覚えはなかったし、自分であれば忘れるはずがない。そう、確固たる自信があった。

「……何度かお贈りしたのだけれど……特に、何もないものだから、」

 彼女からの手紙に対し、ヴィルヘルムから返事があることはほとんどない。が、それでも何度かは返されていたし、言伝であればより容易く頼めたはずだろう。それすらないのだと口にして、彼女は寂しげな笑みを浮かべた。

「お渡し出来なかったのかもしれないわ……それか、お気に召さなかったのかも」

 彼は後者であるはずがないと即座に反論しかけたが、唇を開く前に思い止まる。所詮、彼が告げたところで意味はないのだ。彼はあくまで使者であり、ヴィルヘルムでは決してない。どれ程力説したところで、気休めにしかならないだろう。
 己の立場に苛立つ彼に気付くことなく、エリーザベトは大きな目を伏せがちにした。

「イダに……」切り出しかけて、思い直したように訂正する。「実家から連れて来た侍女なの。アデライーデというのだけれど……イダにその話をすると、必ず悲しげな顔をするものだから……」

 一通り彼女の説明を受けたところで、彼は難しい顔で黙り込む。幾らかは予想もしていた事態だが、それでも考えるべきことは多々あった。

 彼女がこの屋敷に居ることを拒むようになっては困るのだ。ヴィルヘルムと正式な夫婦となるには、まだ五年の時がある。権威が多少揺らいだとはいえ、ヴァイセンブルク家は長きにわたり土地を治めてきた名家だ。未だ政治的に利用する価値が十二分にある以上、阻害しにかかる者が出現しないとも限らない。彼女が決して逃げださぬよう、そして奪われることのないよう、場所の知られていない別邸に隠していた方が安全であったし、余計な情報を彼女が耳にする可能性も低く済む。――そのような考えから別邸で籠の鳥の如く過ごさせていたが、やはり万事が順調に進むことは有り得ないらしい。

 人を代えるべきか、はたまたより信頼の置ける者で固めた別の屋敷に移すべきか。考えを巡らせる彼に、彼女の方では目の前にいる使者を悩ませているという自覚があったのだろう。幾度か瞬きをしては彼を見詰めていた少女は、不意ににこりと笑みを浮かべた。

「……でも、これは好機だと思っているの!」

 突然朗らかな声音で話し始めた少女に、彼は僅かに目を瞠りつつ彼女を見上げた。いきなりの変化に咄嗟についていけずにいる彼に、彼女は少しだけ顔を近付けると、尋ねるように首を傾げる。

「お相手がお相手だし、拙い物をお贈りして、がっかりさせてしまうわけにはいかないもの。そうでしょう?」

 確認してくる内容を頭で処理しつつ、彼は思わず少女の中に虚勢の影がないかを探った。が……彼女の演技が上手いのか、はたまた本心からそう考えているのだろうか。幾ら見つけようとしたところで、その一端すら見当たらない。
 変わらず明るさに満ちた笑顔のまま、彼女は彼の掌を包み返した。

「きっとこれは神様がお与えになった試練なのよ! もっと立派な仕上がりに出来るようになれという意味なのだわ!」

 自信満々に断言してみせた彼女に、どうやら本気であるらしいことを悟り、彼はしばらく眩しげに彼女を見詰めた後、ふ、とその目元を和らげる。その微量な変化に彼女が気付くより早く掌を彼女の手から抜き取ると、静かにその場に立ち上がり、青い裾を翻す。

「あ、あの……?」
「……少々、お待ちを」

 突然背を向けた彼に戸惑う少女へとそれだけを残し、彼は一度部屋を出た。向かう先は決まっている。先程彼女が口にした名には覚えがあったし、また顔もはっきりと知っていた。エリーザベトが連れて来た侍女は、唯一人だけなのだから。

「アデライーデ・レデラー」

 後姿を発見し、男性は迷うことなく口にする。
 この屋敷の者ではない彼に、はっきりと己の名を、それもフルネームで呼ばれたことが予想外過ぎたのだろう。緊張よりも、何故、と、驚きを前面に出した表情で振り返った若い侍女を、使者は鼻で笑い飛ばした。

「私がお前の名を知らないとでも?」尋ねた直後、凍てついた眼差しが彼女を射抜く。「間諜の恐れがある以上、素性は全て調べ上げる」

 当然のことのように語ってはいるが、彼が、ひいてはヴィンチェンツォ家が自分のことを一体何処まで調べたのか……無論知られてはまずい経歴などアデライーデにはなかったが、彼がそう口にすると、何から何まで全てが調べられたかのような感覚に陥る。成程、疑いを抱く対象は少ないに越したことはない。エリーザベトが連れて来る使用人を一人に限定したのもそれが理由なのだろう。
 やはり中々に猜疑心の強い相手なのだろうと、ヴィルヘルムというまだ見る男性に改めて息を飲んだ彼女の反応とは対照的に、使者の方は話題に興味が尽きたのだろう。冷めきった視線を彼女に向けた。

「あれが用意した物を出せ」

 命令された内容に、彼女は萎縮することも忘れ、思わず難しい表情を浮かべる。仮にも当主の婚約者であるはずの己の主を"あれ"などと表現されたことに不快感を覚えないわけではなかったが、それ以上に彼が言わんとしている物が何であるかが分からない。彼女が尋ねるよりも早くそれを察したのだろう、彼は更に不機嫌さを色濃いものにした。

「ハンカチだ。持っているだろう」

 ああ、と、彼女は得心が言ったとばかりに声を出す。が、それに直接返答をするよりも早く、屋敷の玄関で遣り取りをする声音が響いた。この屋敷で普段最も権限を持つ男のそれが真っ先に二人の耳朶を打つ。恐らくは出先から戻ったのだろう。ちらと使者を見詰めてから、彼女は固い顔をして頭を下げた。

「……少々お待ち下さい」

 断りを入れてその場を去った侍女は、言いつけ通りハンカチを取りに行ったのだろう。だがそれはどうやら彼女の管理下にあったわけではないらしい。そう間を置かず、先程と同じ方向から、年老いた男の鋭い制止が使者の鼓膜までをも揺らした。

「勝手にそれを持ち出すとは、一体どういう了見だ」

 察するに、エリーザベトが託したハンカチは男が所持して――否、取り上げてしまっていたのだろう。それも不都合なことに、玄関を通過しなければならない部屋の何処かに。目敏く気付いたらしい男の威圧的な態度にも、特に意外性を感じることなく、使者は耳を傾ける。

「その件は無駄だと何度も言っただろうに、主共々、全く諦めの悪い」

 想定通りだとでも言うべきか。続けられた言動は、普段使者に接する際には決して取らない横柄な態度であり、彼女ら主従を軽んじていることを一切隠してはいない。使者は短く息を吐くと、その足を玄関へと向けた。

「幾ら相応の手解きを受けているとはいえ、あの"お嬢様"は幼過ぎる」

 エリーザベトを言い表すのに"お嬢様"を強調して使ったのは、揶揄を込めてのことだろう。
 正式な婚礼は挙げていなくとも妻として振る舞うようエリーザベトには告げてあり、また使用人にもそのように扱うよう強く言い聞かせてはいたのだが、それでも見えぬところで侮ったような扱いをするのは、エリーザベトの実家が頼れる当主を亡くして揺らいでいる為なのか、或いは未だ若い当主であるヴィルヘルムに対し、目の届かない場所での言動を見破られるはずがないと思い込んでいる為か。
 どちらにせよ忠誠心も畏れも不足しているのだと判断した使者は、今後の処遇を判断すべく思考を巡らせながら、静かに二人の元へと向かう。

 背後から近付いている為に使者に気付いていないのだろう、侍女を嬲るかのようにして笑っている上役の男は、大袈裟なまでに溜息を吐いて呆れてみせた。

「モチーフといい仕上がりといい、酷く拙く幼稚が過ぎる。とてもとても、旦那様のお眼鏡に適う出来では……」
「ほう……」

 こつりと意図的に靴音を立て、使者は男の真後ろに立つ。勿体ぶった話し声は唐突に止み、代わりに酷く冷淡で、厳しい声音がフロアに響く。

「お前は己の主人が下す判断を全て予測出来ると言うのか」

 そうだとしたら立派なことだという怒りとも揶揄とも取れる感情を色濃く乗せながら、淀むことなく言い放つ。深く重い凍てついた声音が、一体誰のものであるのか。当初理解していなかったらしい男は数秒固まった後、ようやく悟ると顔をすっかり蒼褪めさせながら振り返る。焦りを前面に出したその瞳に映るのは、厳格さを纏い佇む一人の麗人。その表情には普段よりも怒りが浮かんでいると感じるのは、男の思い違いではなかった。

「な、何故……何時此方に……!」
「質問しているのは私だ」

 厳しく突っ撥ねた使者に、大柄な男は盛大に肩を跳ねさせた。先程までとは目に見えて態度の変わった男は、怯えきった目で使者を見る。

「そのようなことは……しかし、」

 慌てて取り繕おうとした男は、直後向けられた強過ぎる眼光に喉を引き攣らせて黙り込む。立場の弱いこの侍女やエリーザベトが相手であればいざ知らず、自らよりも遥かに高位であるこの相手に、それも恐怖を抱かせるまでの眼差しを向けられてしまえば、言い訳が出来るはずもなかった。すっかり黙り込んだことを確認し、使者は大きく口を開く。

「己の"妻"が寄越した物を――」殊更妻と強調したのは、先程の男の嫌味を踏まえた上でのことだろう。「――どうするかは、夫が決めれば良い事だ。お前達は余計な真似をするな」

 改めてはっきりと言い放たれた内容に、反論する者などいはしない。怯える余り視線を向ける度胸すら失っている男を一瞥し、彼は怒りすら失せたように視線を外した。

「あれに関する事柄は全て私が指示をする」幾らか落ち着いた口調ではあるが、変わらず穏やかさというものはない。「お前はただ報告をすれば良い。後の事は、処遇も世話も教育も万事はこの私が決める」

 そこまで紡ぐと、冷めきった視線を男に向ける。それは苛立ちを込めて睨まれるよりも、怒りに任せて吠えるよりも、遥かに相手を竦ませる力を持っていた。

「一度でも出過ぎた真似をした者は――無論、言うまでもあるまい」

 最後にそう釘を刺し、彼はそれまで後方に控えていた侍女へと視線を向ける。

「それで?」

 使者の言わんとするところを今度こそ正確に受け取った彼女は、ちらと上役の様子を確認し、止める気配がないことを見て取ると、即座に手にしていた幾つかの封筒を差し出した。

「……此方を」

 緊張した面持ちの彼女から使者が受け取れば、蓋にはどれも封がされていない。開いて確認してみれば、いずれにも入っているのは簡単な手紙と、刺繍の施されたハンカチだ。

「……確かに」

 丁寧に封筒へと仕舞いながらそう返し、彼はその身を翻す。向かう先は当然、エリーザベトの私室だった。
 扉を開ければ、始終落ち着かなかったのだろう、弾かれたように彼を見ると、即座に彼女が駆け寄ってくる。

「あの……」

 一体何をして来たのかと尋ねるはずだったのであろう彼女は、彼が無言で取り出したものに目を見開いた。幾つかの膨らんだ封筒は、間違いなく、彼女が以前使用人達に託したものだ。
 どういうことかと視線で尋ねてくる少女に、しかし、彼が詳細を語ることは決してない。

「此方も、必ず渡します」

 封筒を翳して、短く、それでも確かに誓ってみせてから、それと、と、彼は真っ直ぐに彼女を見下ろす。その眼差しは、先程までの興味の薄い視線とも、厳格さに満ちたものとも違う。僅かながらに、穏やかさを帯びたものであり。

「手紙は、これまで通り書くように」
「え……」

 指示された内容が意外過ぎたのだろう。驚いたように声を漏らした彼女に、彼は珍しく苛立つ様子を微塵も見せず、言い聞かせるかのように視線を合わせた。

「貴女が伝えたいと思ったことを、好きなだけ手紙に書けば宜しいと申し上げているのです」

 静かに告げてくる彼に、彼女は一瞬嬉しげな笑顔を浮かべたものの、すぐさま案じるような眼差しを向ける。

「でも、ヴィルヘルム様は、お時間が……」
「妻からの手紙を読む程度の時間はあるでしょう」

 言葉尻を浚うようにして被せた彼は、きっぱりと断言をしてから、上着に入れておいた彼女からの手紙を取り出した。

「謂わば此は妻である貴女からの報告書です。唯でさえ、お顔を拝見する機会が少ない状況なのですから……」
「顔?」彼の発言に、彼女は不思議そうに首を傾げた。「わたくしは、ヴィルヘルム様にお会いしたことはございませんが……」

 当然の疑問を抱く彼女に、彼は一瞬顔を強張らせると、一つ咳払いをした。

「旦那様は奥様の肖像画をお持ちです。……それでご覧になっておいでです」
「ああ」

 使者が返した通り、確かにこの屋敷に来た日にも肖像画を描かせていたし、それ以降も幾度か画家が屋敷に足を運んだことがある。ただ、飾り立てた姿ではなく日頃の様子を描いていくので、彼女自身には描かれたという自覚が少々乏しかったのだ。
 成程と彼女が納得したことを確認した後で、彼は改めて彼女を見据えた。

「よって、内容も頻度も少なくする必要はございません」

 改めて断言してみせた彼に、ようやくそうして良いものだという実感が湧いてきたのだろう。徐々に彼女の顔へと広がっていく喜色に、彼は僅かに口許を緩めたが、すぐさま澄ました顔に戻して目を伏せる。

「但し、返事はこれまで通り期待なさらないように」
「はいっ!」

 ともすれば落胆しかねない発言だというのに、彼女は微塵も落ち込むことはない。
 それどころか、これぞ子供だと言えるような明るい返事をするエリーザベトに、彼はほんの一瞬だけ、彼女を見詰める目を和らげた。

 *

「では」

 二人で過ごす時間は短い。
 瞬く間に訪れた別れの時間に、豪奢な黒塗りの馬車から顔を僅かに覗かせた彼に、外から見上げている彼女はにこやかに微笑んだ。それが普段よりも明るく感じるのは、彼の思い違いではないだろう。


「本当にありがとう!」酷く幸せそうな笑顔のまま、彼女は小さく手を振った。「どうぞお気を付けて!」

 彼女の言葉に首肯したのを最後に、彼は前方へと目を向けた。

「出せ」

 凛とした声音を合図にし、馬車はすぐさま走り出す。完全に屋敷が見えなくなっただろう頃を見計らい、彼と同席していた老齢の男性が、微笑を浮かべつつ緩やかにその唇を開く。

「本日会食される予定のアンローロ子爵の領土内で暴動が起きたとのことで、急遽行き先が本邸から別邸へと変更になりました」

 報告を聞く男が黙っているのは何時ものことだ。厳しい表情を浮かべていようと、それが微塵も変化を見せてはいない以上、決して不快ではないのだと、長年の経験から理解している老人は、変わらぬ笑みのまま言葉を続ける。

「距離が長くなりますが、宜しくお願い致します――

――ヴィルヘルム様」

 老人……彼の側近の言葉を受けた男は――ヴィルヘルム・ヴィンチェンツォは。
 ちらりと側近に目を向けた後、興味も薄く窓の外へと目を向けた。

「……ああ」

 短くそれだけ返した彼は、やがて上着から一通の封筒を取り出した。一番厚みのないそれは、彼女が今日最初に彼へと託した手紙だ。

 会食の場所など問題ではない。例えどのような場所であれ、常に気を張った上で、駆け引きを含んだ遣り取りをしなければならないことに変わりはないのだ。気が滅入るとまでは言わないが、それでも意気揚々と乗り込む程血の気があるというわけでもない。短く息を吐いてから、彼は手紙の文面に目を落とす。

 幾らかは女性らしい丸みを帯びてはいるものの、流麗と評価して問題はないだろう文字で書き綴られているのは、彼に対する心配と、気遣い。そして幾らかの自分の状況に対する報告と、それを与えている彼への感謝、そして惜しみない愛情だ。込められている想いを汲み取りながら読み進めていくうちに、彼は自然と目を細めていた。

 身分を偽り、使者として度々彼女と顔を合わせているからこそ、把握できることは少なくない。その一つは、エリーザベトの本心だった。

 幾ら十二歳であるとはいえ、エリーザベトは貴族であり、また結婚も可能な女性なのだ。建前でこのような内容を書かないとも限らない。他人に対して猜疑心の強い彼は、自らの目で確かめ続けることを選んだ。そして現時点では、彼女から渡される手紙の内容にも、そして贈り物にも、良くある打算からの胡麻擂り染みたものは少しも窺えない。恐らくは彼女の周囲が彼女にそうしていたことを、そのまま夫となるヴィルヘルムに自然と実践しているのだろう。

 ――少なくとも、彼女の好意は偽りのものではない、と。
 言動から滲み出るそれに、気が緩むのは自然なことだと言えるだろう。

 込み上げてくる温かなものを感じつつ、張っていた気を緩めることは、彼の日常においてはほとんどない。数少ない安らいだ時間を彼に齎す手紙を落ち着いた気分のままひたすらに読み耽っていれば、ふと感じる視線に顔を上げた。
 彼と同席している側近が普段よりもにこやかな笑みを浮かべていることにすぐに気付いたヴィルヘルムは、不機嫌に双眸を細めて老人を睨む。

「何だ」
「いえ、」

 大抵の者であれば竦み上がる鋭さを持った眼差しであるが、それこそヴィルヘルムが生まれる以前から家に仕えている老人にだけは効果を見せることはない。さも微笑ましいとばかりに見詰めてくる老人に、ヴィルヘルムの方が早々に諦めた。

「ふん……」

 面白くないとばかりに難しい表情を浮かべつつ、彼は手紙を丁寧に仕舞い込む。と、指先に触れたのは、彼女からのハンカチが入った封筒達だ。
 試しに一つ取り出してみれば、施されているのはヴィンチェンツォ家の紋章と彼のイニシャル、そして彼の瞳に酷似した色の薔薇だった。

 一針一針丁寧に施された刺繍をそっと撫で、彼は静かに目を伏せる。

 彼女は覚えていないだろう。幼い頃に交わした約束を。遥か遠い昔にも、彼と逢っていることを。別段、その約束を果たす為に婚約をしたわけではない。夢物語のような甘さは、この結婚には含まれていないのだ。少なくとも、ヴィルヘルムの方には、決して。
 それでも。

『かならず、むかえにきてくださいね!』

 蘇る酷く幼い声に、ヴィルヘルムは目蓋を上げると、遠い空へと目を向ける。

 嗚呼、彼女の瞳はこれよりも一層深かった、と。
 今し方別れたばかりの少女が見せた、遠い昔と変わらぬ笑顔に、静かに想いを馳せながら。

 *

 次に使者として訪れた彼は、久方振りに夫として書いた手紙を彼女に渡すと、静かに彼女の反応を待った。

 正直なところ、彼には手紙を書く時間がないわけでは決してない。時間自体は幾らかはあるのだ。……ただ、その時間に纏められる程、返答が上手くは浮かばないというだけで。
 業務的な内容であれば淀みなく書き綴ることができる。が、妻が相手の他愛無い内容ともなれば勝手がまるで違うのだ。書いては捨て書いては捨てを繰り返した彼の部屋には、渡せずに溜まりきった手紙が大量にあるのだが、恐らくそれエリーザベトが受け取る日は来ないだろう。仕上がる前に彼女から次を渡されることが大半なのだ。上手く理由を付けて過去の返事を渡せる程、彼は器用な性質ではなかった。

 だからこそ、こうして数少ない渡す機会ともなれば、酷く緊張を煽られる。……他の者に託すことも考えたが、反応の方がどうにも気になって仕方がない。結局のところ、自分で渡すしか方法はなかった。

「……手紙には、何と?」

 難しい表情を浮かべたまま黙り込んでしまった彼女に、ついそんなことを尋ねてしまう。問いかけた彼が彼女の僅かな仕草にすら過敏になっているとは夢にも思っていない彼女は、手紙をじっと見詰めつつ、僅かに表情を暗くした。

「もっと練習をするようにと……」

 沈んだ調子で返す彼女に、彼は表情を強張らせる。今回ばかりは返事をしなければと思って即座に書き上げたのだが、厳しくし過ぎたのだろうか。そこまで冷たい意味ではなかった――少なくとも、貰ったハンカチには十二分に満足していたし、次はあるのだろうかと思う程の喜びはあったのだが、伝わらなかったのかもしれない。直接的な文章は、実は当初は書いていたが、最終的には全て削ってしまったのだ。

 焦った彼は、どうにかしてフォローをしなければならないという思いに駆られたのだが、それよりも先に彼女がぱっと顔を上げた。

 それは、偽りのない、正真正銘の、笑顔。

「……でも、『期待する』とのことなの!」

 感謝する、と。それだけはしっかりと彼も記した一文を酷く愛しげに撫でてから、彼女は手紙を抱き締めると、目の前の男に笑いかけた。

 恐らくは彼を通して、夫のヴィルヘルムを見ているのだろう。彼女は決して知らないのだ。――目の前にいるのが、代役となる使者ではなく、本当に、夫のヴィルヘルムであるということを。

「わたし、頑張るわ!」

 張り切って宣言してみせてから、彼女は再び彼からの手紙を読み返す。
 そんな彼女をしばし呆然とした様子で見つめていた彼は、彼女に気付かれないように、酷く曖昧な表情を浮かべた。

 彼自身ですら、気付かない。
 ……それが不器用な彼の、精一杯の笑顔であったということに。



title by 『確かに恋だった』

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